大学の同期からの連絡に慌てて外へ出れば、存外涼しい夜気が私を包んだ。
サンダルに黒のパンツに部屋着のTシャツ。仮にも女子大生と呼ばれる人間が外に出る格好じゃないな、と苦笑いしながらマンションの共用部を歩く。
右手に握りしめた鍵同士がぶつかって静かな廊下に響いた。
反対の手の中のスマートフォンは止むことなく振動し続けている。
先客がいるものだと思っていたマンションの階段の踊り場には誰もいなくて、拍子抜けしながら手すりにもたれかかる。まだ始まっていなかったのか。
近くで一斉に鳥が羽ばたく音がして、思わず身を竦めた。
そのまま恐る恐る見下ろせば、道行く人が傘を開いているのが目に入る。なるほど、気づかなかった。
どうやら雨宿りのようだ。
ふと屋根のある出窓に目をやると、鳩の番が羽を休めていた。
目当てのものはまだ始まらないらしい。
ようやく静かになったスマートフォンの画面をつけると、よく一緒にいる同期10人ほどからなるLINEグループが騒がしく動いていた。気の置けないやりとりをさらっと流し読みしつつ、最後の言葉にひとつだけスタンプを送って再び光を消す。
雨音と蝉の声が心地よい夏の夜を演出していた。
ふと、視界の隅にオレンジ色が映った。
始まった!
勢いよく顔をあげ、柔らかな光を追う。
私の位置からは、その全貌は見えない。
慌てて階段を駆け上がろうとすると、つっかけたサンダルが高い音を立てて転がった。
うろうろと階段昇降を繰り返し、ようやく心地のいい場所が見つけてしばらくひとりでぼんやりと上方を眺める。
暗い空に橙色の光が、あまりにも夏だ。
物音が聞こえて思わず振り返る。
5歳くらいだろうか。ひとりの男の子がこちらを見つめていた。遅れて来た女性が、「こんばんは」と頭を下げる。
つられて下げ返すと、「見えてますか?」とやわらかく微笑まれた。頷いてその場を譲る。
その親子はしばらく眺めたあと、また会釈をして帰って行った。夜の外出という非日常に少しはしゃいだような、それでいてまだ状況をよく呑み込めておらず不安そうな、そんな男の子の声がしばらく残っていた。
道行く人が上空を見上げているのを、5階の高さから眺める。
彼らが見上げるそれが私にとって価値あるものであることなんぞ言うに及ばないが、それより遥かに感興を覚えてしまう光景。
ベランダに出てきた父親と思しき姿の、その背後から漏れ聞こえる生活音。
道行く人が小雨に戸惑いつつ、それでも上空を眺めようと傘を傾ける様子。
一方でまだ帰宅できていない疲れた顔の電車の中のサラリーマン。
幾分か普段より遠慮がちに聞こえる蝉の声。
皆生きているのだなあ、と思う。
情勢上あまり見知らぬ人の生活に関与する機会はないけれど、
でもやはり生きているのだなあ、と思った。
マンションの他の住民に話しかけられたのも、思えば初めてかもしれない。1年半もこの家に住んでいるのに。
私ひとりだけが見下ろしていて、周りの人は皆見上げている。
実家の窓からは地区で一番大きな花火大会が見えるのだが、実家の窓から見えるということは周辺の家の窓や向かいのスーパーの駐車場からなんかも同様に見えるわけで。
最後の花火の後に人が帰っていく様子が、その興奮冷めやらぬ声があまりにも好きで、いつまでもそれを窓から眺めていたのを思い出す。
私が物思いに耽っている間に、一連の流れは順調に進んでいた。
最後に白い人工灯がちかちかと瞬いて、夏の夜の終わりを告げた。
やがて道路からは人が消え、近くの家の窓のカーテンはすべて閉められ、あたりは虫の声と鳥の舞い上がる音しか聞こえなくなる。
この瞬間、私は人間の営みが、どうにも尊くて、愛しくて、煌めくものに見えてしまうのだ。
無題。
夏の一夜の話。