ダニング・クルーガー効果

つれづれなるままの覚書

 

 

 

深夜、雨の音を聞きながらこのブログを書いている。

月初から書こう書こうと思っていたブログは課題やらなんやらで書くタイミングを逃し続け、気づいたらこんな時期になってしまった。月半ばだなあ。

 

しとしと降る雨というのはなんだかよいもので、水のカーテンの向こうから聞こえてくる外の音だとか、隣人の生活音だとか、そこから切り離されている自分の部屋の空気感だとか、そういうものをゆったりと感じていられることを幸せに思うから好きだ。何もなくてもただただ注がれる水によって心が満ちていく。満たされていく。

 

しばらく書いてなかったせいでブログの書き方を忘れてしまって、というか初期に抱いていた ”自分の文章を他者に読まれる恐怖” とやらが復活してしまって、穏やかな気持ちにならないとなかなかサイトを開けなかった。今は雨のおかげでパソコンに向かえているからありがたいというかなんというか。

 

自分の文章を他人に読まれること、正直いつまでたってもどうしようもなく怖い。

少し前についったらんどで仲良し相互の皆様方から言語化を褒めていただく機会があったのだけども、わたしは自分の言語化のセンスと書く文章がたまらなく嫌いで(というか根本コンプレックスの塊のような人間なので好きなところを挙げる方が難しい、因みに自分が素敵だと感じるものに素敵だなあって素直に言えるとこは結構好き)、だからその言葉の宛先が自分であることに驚いたし喜んだしお寿司、いつも仲良くしてくれてありがとうね。

 

 

素敵なものに素敵だなあっていうこと、実はこれも昔はできなかった。素敵って認めるのってなんだか負けた気分だったから。

 

如何せんコンプレックスの塊で、そして何しろ欲張りだから、自分は何一つとしてできないくせに他者はなんでも持っている(ように見えた)ことが癪だった。

実際に他人に苛立っていたのか自分に苛立っていたのか、そこの境界線は何度思い返しても未だにはっきりと引くことはできないからまあ両方だったんだろうな。

 

「素敵だなあ」は「羨ましいなあ」になって、「わたしもそんなことができればいいのに」になって、最終的に「なんでわたしにはできないの!?」の刃になって頭上から慈悲なく降ってくる。苦しい刃だね。しんどい生き方だ。

 

中国語には「羡慕嫉妒不恨」っていう言い回しがあって、「羨ましいななんでそんな風になれるの?まあでも恨んではないよ」みたいな意味を1フレーズで表現するらしい。中国語の講義で先生が言っていた。

( ”羡慕嫉妒恨” で ”羨ましいななんでそんな風になれるの?わたしはなれないのに” みたいに言うこともあるらしく (当然本気で恨んでいる訳ではない)。)


ともかく、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を飼い慣らしたわたしは素敵なものを素直に素敵だと認めることができなかったんだな。

これは多分、贔屓目なしに優秀すぎる父と姉、敵いようのない絶対的な母、そして平々凡々、なんなら平均にさえ届かないわたし、の家族構成もめっちゃめちゃに関わっていると思うのだけど、長くなるので割愛。

 

 

最近は結構楽だ。

少なくとも他者を認められないという狭量さと無意味な捻くれとそれによる自己嫌悪を抱えることがなくなった、いやそれは言い過ぎかもしれないけど明らかに昔に比べて抱える量は減った。

素敵なものは素敵だし、美味しいものは美味しい日々を送っている。

何より楽しい。

 

外界をシャットアウトして自分のことを強制的に見つめ直させてくる憎き雨とも少しずつ和解しつつある。

低気圧からくる頭痛も精神の不安定さも全部なくなっちゃえばいいのにね。

 

 

 

 

 

余談ですが、冒頭で風流さを感じとっている(風に装う)大学生私、白状します、

今日大学から帰るときに雨に打たれたいがためだけに傘もささずに自転車で15分くらい爆走しました。小学生の頃同じことをやって母から叱られたことを思い出します。成長してないなあ。ほんとうに大学生ですか?

でも帰宅してすぐに自主的に熱いお湯のシャワーを浴びたのでえらかったです(帰宅前に濡れ鼠のままスーパー寄ったけど!)。成長したね。

 

わたしの風流さはいづこに。