ダニング・クルーガー効果

つれづれなるままの覚書

side B

 

 

 

自己紹介が苦手だ。

「紹介する自己がない」って、いっつもおどけて口にする。

 

 

"紹介する自己がない" って、"何も趣味がない" と "他者にあんまり開示できない(したくない)" の2種類あって。

わたしはその両方で、だからすごく厄介だった。

昔に比べたら随分ましになったとは思うけれど、今だって、ずっとそうだ。

 

だれかと話したい。でも趣味がない。

いくつか辛うじてあって、でも堂々とは喋れない。

詳しくないし。模範的なオタクじゃないし。キャラじゃないって言われたら泣いちゃうし。そもそもドン引きされたくないし。

 

 

小学生のとき流行ったプロフィール帳だって「特にない」だとか「わからない」だとかでごまかして、今見返すともはや記入する意味がないそれだった。

自分自身の選択に自信がもてたことなんて、ひとつたりともなかった。

 

 

高校生になってようやく人前で口にできそうな趣味を見つけて、それまで何も話せなかったわたしがやっと「人に広めたい」って思った。「人に広めなきゃ、」だったのかもしれない。

あんなに最高のコンテンツがこんなとこで燻ってるのはおかしいと思って、莫迦みたいに布教した。

身の回りの人に布教して布教して、記事と動画のリンクを送りまくって、推しポイントを列挙して。

 

ほんとうに厄介な。

 

でもそのおかげで広がったコミュニティは間違いなくあって、そのコミュニティの居心地はよくて、なんというか趣味を他者と共有するって多分ああいうことなんだよなって。

 

 

ただそのうち、新しいものがほしくなった。

 

応援したい人たちはできた、「おうえんしてるんだよね」って、わたしのたいせつな人にも話したい人たちだと思えた。

だから次はわたしがひっそりと楽しめるコンテンツがほしくなった。

 

 

そのときもまだ自信はなくて。

今思えばひっそりとたのしむためなんだから自信も何もなくてよかったはずなんだけどなあ。

でも、その当時はいろいろあって余裕なんてなくて、外から入ってくるほとんどすべてのものをシャットアウトしていて、だから自分の感性すら信じられなかった。

 

もう何もわからなくて、でもわたしにとってたいせつな人の選択はきっと間違っていないはずだから、とその当時仲良くしていた高校の同期に好きなアーティストを訊きまくった。

同期はみんな笑っちゃうくらい優しくて、お気に入りのアーティストさんをたくさん教えてくれた。

そのうちの何人かはわたしのストライクゾーンど真ん中で存在感を発揮しまくって、そうしてわたしはそのアーティストさんたちにひっそりとハマっていった。

 

お気に入りを分けてくれて、しかもそうやってそっと差し出してくれたのがわたしでも素敵だなって思える人たちで、そんな彼らに劣等感を少しばかり刺激されることもあったのだけど、それはまた別の話で。

 

 

 

数か月前のあの日、わたしはわたしの青春をなぞっていたのかもしれない。

 

大学生になってからなぞる高校時代の青春はどこか痛くて、でも高校時代を色あざやかに蘇らせて、わたしは泣きそうで。

それをだれかと共有できたことも、とっても嬉しかった。

このコンテンツめちゃくちゃよかったねって。

応援してきてよかったよねって。

 

 

わたしの錆びついていた(と勝手に思っていたし、今でもそう思っている)感性も、まだまだ捨てたもんじゃないなって、そう思えた。

 

 

今ひっそりとたのしんでいるあれこれも、そのうちだれかと共有できたりするんだろうか。

そしたら、そのときは、