ダニング・クルーガー効果

つれづれなるままの覚書

2月あたま所感

 

・最近、いつになったら”子”が”人”だとか”性”だとかになるのかばかり考えている。

社会人になったら、流石に”子”ではないような気がしている。でも同期である学生を見ると、まだまだ”子”だなあと思う。わたしも、たぶんまだ”子”だ。

じゃあ、高卒の社会人は?どうなんだろう。自立しているから”性”もしくは”人”か?

”男子/女子”、”男性/女性”、”男の人/女の人”。そもそもこうやって性別で二分するのもナンセンスか。

 

 

・「好きな音楽を教えて」だとか、「どんな本読んでるの?」だとか。同期から尋ねられて挙動不審になってしまった。だってそんなの、熱烈な愛の告白みたいなものじゃないですか。

好きなもの、しかもライトに、ではなくディープに好きで追いかけているものは、その人の深いところまでを見透かすような気がするからあんまりたやすく触れられない。というか、触れていいのかわからない。触れてほしくも、、、それはまあどっちでもいいや。

その子にはわたしが最近読んでいろいろと考えるきっかけになった本の題名を数冊分伝えた。

 

 

 

・後期が終わって時間ができた。ぼちぼちと後期の間の積ん事(積ん読、に限った話ではない)をしている。積ん事に回されることは大抵わたしが時間ができたときに本気で向き合いたいことで、要するに、わたしの熱量が高い。熱量が高いからこそ積ん事に回していても大丈夫ともいえる。逆に熱量が低いことはすぐに始めなくちゃだめでしょう。どうせやらない。

 

 

・積ん事(いったいいつまで使うんだこの造語)のひとつに、好きな人の文章を読む、というのがあった。好きな人の文章を読む?好きな文章を書く人のことが好きなのかもしれない。どうでもいいか。

2月に入ってから大分読んだ。大分読んで、へこたれた。それはもうとてつもなく凹んだ。

ごく少人数で構成されているわたしの鍵垢では、わたしが好きな文章を読むたびに喚いている様子が観測できる。愚痴垢じゃないっつーの。

 

 

・大学の同期は、わたしがこうして文章を書いていることを知らない。文章を書いている、なんて自意識過剰な言い回しだね。ただの戯言の掃溜だよ。

 

 

・雑誌のエッセイには編集者なる存在がいるらしい。一体どこまでがその人の言葉なんだ。どこまでがわたしが読みたい人間が書いている文章なんだ。どの文章構成までが貴方の思考なんですか?そのうまい具合にちりばめられた伏線も、それを最後の最後に回収するやり方も、季節の話だって、なんてことない言葉の選び方だって、その漢字変換をどうするかだって、ならべられた平仮名だって、わたしはぜんぶぜんぶ貴方の世界だと思いながら読んでいて、じゃあ、じゃあ一体どこからがプロにつくりあげられたものなんですか???

 

でも知ってんだよな。編集者なるものが存在しないインターネット上のブログにおいて、わたしよりはるかに魅力的な文章を書く人がわんさかいること。こうして毎月考えて文章を打ち込むわたしより、まったく文章を書かない同期の方が人を惹きつけるものを生み出すこと。わたしが物心ついたときから欲しくて欲しくてたまらなかったものを、わたしにはないそれを、どうやっても手に入れられないそれを、いとも簡単にそのセンスで得てしまう人が多いこと。そういう人が本気で練って練って練り上げたものは、ほんとうに本当に尊くて鮮やかに輝くこと!!

だからきっと、彼らのそれもそうなんだろうね。どうしようもなく妬ましくて、眩しいよ。

 

 

・だれかの思想がにじみ出たそれは、どうしようもなくいとおしいと思う。わたしは貴方が何を見て、何を感じて、何を考えたか、それだけが知りたい。ただそれだけ。

素敵なものは素敵だし、魅力的なものは魅力的で。ただ、わたしはそれを自分で咲かせられる種を持っていない、だけ。

 

 

・幼少期からとにかく文章がうまくなりたかった。音楽や絵で、他の芸術で表現する術をもたない人間だから、言葉を使って、遣って、尽くすしかないと思った。小説も感想文もブログもなんだって書いた。でももうそろそろ潮時なのかもしれない。そんな気持ちをまた文章に起こす。