令和ちゃんがお転婆にはしゃいでいる今日この頃、各位いかがお過ごしでしょうか。
わたしはしっかりと気まぐれな令和ちゃんに振り回され、お天気によって文字通り一喜一憂しながら1日をながしています。
ここ最近全然ひとつのテーマだけでブログを書いてなかった(わたし調べ)ので、久しぶりにちゃんと1500字くらいの文章を書こうかなあと大学の研究室でパソコンを開いている。
新生活、始まったねえ。
(ほんとうは論文を読まなくてはいけない。現実逃避。)
わたしの新生活はというと、なぜか月金が全休になってしまったために実質4連休、社会を舐め腐ったような履修を組んでしまったくせに、日夜大学の研究室に居座り続ける、という社畜ならぬ学畜のような毎日。結局大学には変わらず通っているし、研究室という公式な居場所を獲得してしまったがゆえに土日も入り浸り、ほんとうにわたしは何をやっていますか?
先輩にも「毎日来てるのすごいよね、、(呆れ(当然わたしビジョン))」と言われる始末。
どれもこれもわたしが論文を探すのがへたくそなのが悪いんだけども。ゼミ、一生終わらん。
今回でかでかと掲げたのはわたしの同期の言葉で、なんだかいいなあと思ったので許可をもらってタイトルにひっぱってきた。
なんだかよくないですか?
その同期はもともとわたしと同じ歴史専攻だったのだけどなんやかんやあって今年から転科、別の学科で毎日を過ごしている。歴史という分野にまだ若干の未練を残している気配を口ぶりから感じつつも、わたしも同期の挑戦を応援しているのだけど。
転科して卒業のためにまた1から単位を揃える、というのは、人生における足踏みである、という捉え方もしてしまいうるわけで。
今年の1月に転科願を提出した旨の報告を受けてから、歴史を専攻した2年間がその同期にとってどのような意味をもっているか、どのような価値があるか、考えないこともなかった。
というか、"なんやかんや" の部分を学科の中で唯一、ただわたしだけが知っている現状があって、プライバシー的にそのことを誰にも洩らせない制限があって。
どうしてわたしがその唯一に選んでもらえたのかなんて知る由もないけれど、こっそりと話を聴きつつ、ひっそりと報告を受けつつ、という毎日だったから、その同期が2年間をどんな風に捉えているか、正直なところほんとうに怖くて。
べつにわたしが同期の人生に責任をもつ必要も負い目を感じる必要もないけれど、自分だけが知っている状況ってなんだか怖いじゃないですか。
本来だったら分散する内容がぎゅぎゅっとわたしにあつまってきて、そうしていつか委ねられてしまうような、そんな。
選んでもらえていること、とってもうれしいんだけどね。
うれしくて、怖くて、でもやっぱりうれしくて。
「転科先の講義の方が歴史分野の講義より興味深く聴けてて、でも歴史の講義を受けてる間に見たものが思考の材料になってる側面もあって。どうしたって後悔はしてない。 "井の中の蛙、他の井を知る" って感じ。」
同期のその一言で、なんだかほっとした。具体的にどこがどうとか、何がどうとか、そういう話ではなくて、なんなら言葉の意味が100%理解できたわけではないのだけど。
"後悔していない" って、ただそれだけが聴きたかったのかもしれない。同期の口から。直接。
少なくともそう言われてわたしは無性に安堵したし、嬉しかったし、どんなかたちであれその同期と2年間過ごしたことをまるっと肯定できる気がした。
わたしのたいせつな人各位、今住んでいる井戸の住み心地はどうですか。
わたしはどうにかもうすこしやっていけそうです。
あなたも、どうか、健やかで。